昭和五十七年一月十六日 朝の御理解
x御理解第二十二節 「天地金乃神と言えば天地一目に覧ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよと言う心を出さぬばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよの事ぞ。」
実意丁寧、神信心、お道の信心の、まあ芯と言うてもよかろうと思いますね。ですから実意をもって、しかも丁寧に神信心をさせて頂くという事が、とりもなおさずおかげの受け物がでけるという事じゃないでしょうか。神様は平等に一応におかげを下さってあるのですけれども、受け物が悪ければおかげが漏る、とこう仰せられね、いわゆる実意丁寧神信心、只、実意丁寧神信心という事が、ただ一生懸命にお参りをする、拝むという事ではなくて、ね、やはり、実意丁寧神信心というのは、いよいよ実意を持って教えを行ずる、守って行く、いわゆる行き届いた信心をさせてもらう、そこにまあ、いうならば行き届いたおかげという事にもなって来るのじゃないでしょうか、ね。行き届いた信心をしなければならない。それこそ水も漏らさぬ受け物をひとつ作りたい、ね。又、頂きたいと思います。
昨日は富久信会でございました。お商売人の方達の信心研修です。もう本当に度、度皆さんの、昨日は丁度二十名余りの方達が発表されました。それぞれ商売上の上に色々おかげを頂き、又、合楽理念を実験実証させておられる。ま、お話でございましたが、最後に会長さんであります、その、久留米の佐田さんがお話をしておられました。
兎に角、商売をさせて頂くその心掛けとして、親先生にお伺いをさせて頂いた時にz「中」という字を頂きました、と。私もその事を忘れておりましたけれども、その話を、だから「中」というのは、まあ、いうなら教祖様がお商売に対する御教えの中に、売場買い場というてと仰せられます。売場買い場を大切にせないかん、とお客さんを大切にするという事はね、まあお客さん本意といった様なお商売をなさっておられますけれども、いわゆる買い場の方を大切にする、ね。その事を別な表現でね、そん売場買い場とは言われませんけども、親先生から「中」という字を頂いた時にね、ま、当時は会社組織でありましたから、会社にも喜んでもらえる、お客さんにも喜んでもらえれる信心を、自分の信心の信条としておる、という意味の話をなさいました。成程おかげ頂かれるはずだと思うです、ね。
教祖の御教えをですね、例えば商売人に対する御教えなんかは、あのう、御教え一つあるだけですけども、兎に角、売場買い場を大切にせよと。人が拾銭で売るのは八銭で売れ、とね。という様なその御教えをですね、もう、それこそ自らをもって行じ切っておられるところに、まあ佐田さんの、いうならばお商売があるんだなあ、と。
昨日、おとといの晩でした。昨日の晩ですね。確か。テレビを見させて頂きましたら、丁度成人式にあたる人達に対して、誰か、その、まあ、何人もの人達が一口づつ、ま、お説教というか、お話をしてました中に、大阪かなんかの大変お金儲けの名人がおられるそうです、ね。その方が言ってましたが、ね、お金がないと言う事は、もう人間は、この首がないのと同じですよ、と。私はそれを聞いて本当にそうだと思いました。お金がない事は、もう首のないと同じ事だと。これは、もう商売に限った事じゃありませんけれども、とりわけ商売人がね、いわゆる金に詰まってしまうという事は、もう本当に首がないのと同じです。そこで、こういう様な在り方になれば金が儲かられるという事を聞きながら、私は思うたんですけれども、どんなに商売の名人、金儲けの名人というてもね、ただ、その人がそれこそ紀国屋文左衛門じゃないですけれども、なかなかの、まあ、いうならアイデアマンという様な方達は、なかなか当たるです、それが。で、商売が繁昌するです。けれども一代分限者に終わってしまうでしょうが。
昨日、ある御信者さんが娘さんが嫁行っておられる所のお姑さん、娘さんはこちらに居る時に熱心に信心しておりましたが、お姑さんが嫁さんに言われる事に、「もう、私は今朝から不思議な不思議な夢ば見たち、だからあんたが拝ませてもらいよる金光様、お夢やらようわからんなさるそうですけん、まあ尋ねて来てくれんか」と言わんばかりの事を言われたから、お姑さん所に手紙が来た。そん手紙にお姑さんが頂いた夢というのは、誰かがね、「お前が、がめつう集める事ばっかり集めるからネズミが来てかじるのじゃ」と言うお声を頂いたそうです、ね。いうなら私が昨日の晩聞いた、その大阪の金儲けの名人という人は、成程、金のないのは人間の首のないのと同じ事だと言うふうに、私はそれは同感です、ね。
けれども、その儲ける、金儲けさえすりゃよいという、例えばアイデアで儲けるとか、又は、その、がめつう、ま、一生懸命働いて精進、勿論して、ま、儲けだすとこういう、けれどもそれはね、がめつう儲けたのは必ず、それこそ黒い頭のネズミがやって来るです、ね。だからそれではね、頂いたおかげがおかげにならんのですけれども、信心をさせて頂いておりましても、只どうぞどうぞと言うて、願うだけでおかげを頂いたとするなら、これはま、伊万里の方が発表してましたが、ね、先日から、こう食べすぎて胃が一晩中痛んだ、という話でした。だから折角おかげも頂き過ぎたら、かえって腹が痛む様な事になるのじじゃないでしょうか、そういう事を言ってるんです、ね。だから、おかげおかげでおかげはほんなら、地団駄踏む様にしてお願いもするし、一生懸命お参りもするし、どうぞどうぞと願うから、まあ商売繁昌のおかげ頂いたにしましても、合楽理念に基づかず、いうなら教えに基づかずね、それこそ佐田さんのお話じゃないけれども、売場買い場を大事にする事でもない。兎に角儲かりしさえすりゃよいという事で、儲かるなら同じ事が言えるのじゃないで、子にも孫にも伝わらんです。それでは。
それで私その話を聞きながら思うたんですけれども、ね、只、金儲けの名人という事であってはならん。金はがめ……いわゆる、この……むこうから集まって来る、いうならば、昨日天地の保証という、この福引きに当たった人が話しておられましたが、ね、これはまあ、色々な意味で、ま、その人なりに頂いておられるようでしたが、私は思うのです。財産も天地の保証がある財産でなからなだめだと思うのです、ね。
私、その事を、もし天地の保証のない財産であるならば、それがお金であるならばニセ金のようなもんだと。日本のお金には日本国政府の、まあいうならば裏付けというものがあって、それが本当のお金であるように、もし、その裏付けがなかったらニセ金と同じ事だ。だから見つからない間はいいけれども、ほんならニセ金で使い、であるという事がわかったら、罰受けなければならん事はもう当然の事なのです。どんなに、ほんならまあ、億万長者になりましても、その億万の金にですよ、ね、いわゆる天地の保証がなからなきゃいかんのです、ね。だから合楽理念に基づく、合楽理念に、商売は合楽理念を持ってする他はない、という様に言いながら合楽理念に基づかずに商売した、儲かったではね、本当な事にはならん。
いわゆる今日の御理解ではないけれども、受け物を作っての信心、ね、それにはね、いわゆる実意丁寧神信心がいる。それは商売させて頂いとって、只今修行中といったような人達があります。本当に金がないという事はこんなに辛いやろか、という様な所を通っておられる方達もいくらもあります。けれどもそういう時にいよいよです、私は受け物を作る時だとこう思うです、ね。只、そこの苦しい中から、どうぞどうぞと言うて抜き出る事だけじゃなくて、そういう時こそ、いわゆる、まあいうなら、完璧な受け物を作らせて頂く時なんだ、ね、そして集まって来るところの物であり財である、とね。いうなら神徳人徳も頂いて、いうならば集まって来る財ね、それには実意丁寧、いわゆる神信心であるかどうかを、ひとつお互い確かめていかなければいけません。只、熱心に参っております、拝んどります、だけじゃなくてね。言う事、する事の中にいつも神様の心。
昨日、宮崎の佐田さんが発表しておられました。本当に今度の福引きで頂いた教えに基づいて夫婦の者がね、今までの信心の、いうならばイメ-ジアップさせてもらって、いわゆるおかげが焦点じゃない、兎に角あの世にも持って行けれるお徳を受ける事が焦点であるという、も、夫婦でこんなにピタッと話あった事がなかった。お互いが頂き合わせたあのクジから、いわゆるイメ-ジアップができた信心さしてもろうて、そして、かく、おかげを受けておる、という、まあ見事なおかげを受けていかれておる様子を話されました。もう、ただ聞いとってほんなこつの、と言うごと不思議な不思議な働きがしこに起こって来るわけです、ね。だからお互いがおかげを頂かせて頂く、という事でも、やはり神様はおかげをくださるものだと。自分達は頂く方の側だという考え方から、神様の心がわかる。神様の思いがわかる、ね。そこから、思いに添わせて頂こうという信心こそ、私は実意丁寧神信心じゃなかろうかと思うです。ありゃ、やっぱ性格的に非常に実意丁寧な方があります。けれども実意丁寧だけじゃいかんのです。実意丁寧神信心でなからなければ。ほんなら、その実意丁寧な神信心とは神様の心がわかり、神様の心に添い奉る。いうなら、痒いところに手が届く、神様のですよ、ね。思いに、いはば添うていく。痒いところに手が届くような行き届いた信心をさしてもらう、という事を願わなければならないと思います。
昨日でした。朝の食事の時に家内が、お休みや日曜日の時には必ず孫の恵城が一緒に食事を、もうそりゃもう御用だと思ってるんですね。お爺ちゃまが喜ぶからというて、もう必ずやってくるんです。
最近、食卓にあの調味料をね、色々、酢やら醤油やら色んなマヨネ-ズやらいっぱい入れて、こうクルクル回る。とを頂いたもんですから、それにこう色んなものを上げてあるわけですね。ソ-スやら醤油やら。私のはあのう醤油なんかでも全然無塩醤油ですから違うわけです。ところが、その、それが代わったもんですから今頃のではのりきらんのです。だから最近、醤油ビンが代わってるんです、ね。それが私がもう一週間位になりますけれども、自分の醤油ビンがどれじゃったか…、毎朝忘れるわけです、ね。え~と、お醤油のビンはどれだったかなあ、ち。度々聞かなんならんわけです。それもんだからそれを聞いとったんでしょうねえ。恵城が家内に、あのうお婆ちゃま、このね、あのう、お爺ちゃまが使うお醤油を真正面に向くように回しときなさい、ちいう。ほんなこつ、そうねえ。ち、いうて、その家内が感心してからそれを、その事を昨日話すんですよ、ね。
いうならば、お爺ちゃまの事をそれだけ考えとってくれとるち、言う事になりゃしませんか。まあだ小学校一年生の孫がですよね。大人が気が付かない様に、お爺ちゃんが毎朝たんびに、おれの醤油はどれだったかち、聞くもんですからね、お婆ちゃま、醤油が真正面にいく様に回しておきなさいとこう言うのです。
私は実意丁寧神信心とは、まあいうならばですね、そういう様に、なら、心の、心配りとか心づかいというものが出てこなければならないと思うですね。それこそ水も漏らさん、いうならば信心とは、只、一生懸命参いりよります、拝みよります、だけではなくて、神様の心がわかり、神様の心に添い奉ろうとする精進こそ、私は水も漏らさんおかげという事になるのじゃないでしょうか。勿論、その信心が育って行かなならん事は勿論です、ね。
皆が豊かに大きく、兎に角、まあお商売するなら、ま、商売によって儲けだしもせんなりません。お金も沢山、大きなおかげを頂きたいと思う。ただ、それを自分が商売上手であるとか、アイデアがいいからだけで儲けだすのではなくて、いよいよ自分の心を、例えば今の実意丁寧神信心を、育てて大きくして行こうとする精進がいるのです、ね。そこでほっら、私共の日々の上に様々な、ま、難儀な問題もあれば、心に引っかかって仕方がないといった様な事もありますけれども、その難儀な問題こそ、心に引っかかる問題こそ合楽理念に基づいて、その難儀を一つ一つ乗り越え乗り越えして行く、心に引っかかるものがすきっとわからして頂けれる信心をさせて頂くたんびに、自分という者が空しゅうなって行く、ね。自分という者の我情が取れてくる、我欲が取れてくる、ね。いうならばおかげを頂くと言うてもね、百のおかげより千も万ものおかげがよいでしょう、為には、百であれば100(いち、れい、れい)でしょう、ね。千であれば1000と三つつくでしょう。万であれば0(れい)が四つつく様にね。私共がね、自分という者を空しゅうするという事、いわゆるここでは、ままよという心と言っておられますね。そのままよという心をその都度都度に出して行くね。
昨日は成人式でしたから、若先生が祭主でお祭りを仕えさせてね、皆、御参拝の方達に、毎年色紙やら短冊か何か書いた物を、私、忘れとったから今年もやらにゃいけん様に言いますから、ほんならそうしようと言うて短冊を持って来てましたから、そいで何と書いてあげようかと思うて、ま、皆同じじゃありませんでしたけれども、ほとんど私、信心の「稽古」という、これは三代金光様から頂いて居る短冊のそれを書いて皆にあげました。信心の稽古、もう私自信この三代金光様のお書きになった物は、色々頂いとりますけれども、この御教えくらい、私いつも身近におかげ頂いた御教えはないですから、それを書いてあげた、ね。色んな問題、ちょっと心に引っかかる事があるでしょう、時にその短冊を見る度、「はあ、神様はこの事によって稽古せろと言っておられるなあ」と思うから、もうすぐその場で問題が解決するです。「はあ、こりゃもう問題じゃなヵった。これによって稽古をさせて頂くんだ」と。だからその説明をしてから皆なにあげた事でございますけれども、ね。その、いうなら問題が大きければ大きい程です、ならば自分という者は、いよいよ空しゅうしなければ、これで稽古さしてもらおうという気が起こってまいりません。自分という者を空しゅうする。いうなら0が段々大きくなって行くに従って、おかげは大きいね。百よりも千、千よりも万という様におかげが広がって行くと思うんです。
大きな、成程お金のないのは人間の首のないのと同じ事です。けれども、そのお金もね、天地の保証、天地の裏付けのある、いうならばおかげとは受け物を作って頂くおかげという事なんです。それを実意丁寧神信心と聞いていただいた。そして実意丁寧神信心とは、神様の心がわかり、心に添い奉ろうとする精進だと。只、自分の思いだけを指摘して、神様どうぞどうぞという事もいけんと言うのじゃないですけれども、信心さして頂いておるうちに神様の心がわかる。その心に添い奉ろうとする精進、ま、それを孫の、ま、話から聞いて頂いたんですけどもね。神様が私に何を求めておいでられる、いやこうすればお爺ちゃまが喜ぶに違いがないと、いうなら、感じた時に、それを、あの、家内にこれから醤油はお爺ちゃまが使う醤油が、真正面に行く事ふうにグルグル回るとですから、置いとけと言うたとこう言うのですよね。そういう信心が私はでけて、実意丁寧神信心というのじゃなかろうか。それが、いうならば完璧を目指すところのおかげの受け物作りではないかというふうに思います。どうぞ。